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ながた茶店の歴史
400数十年ほど前の戦国時代、岡山県北部の勝山周辺から米子へ移り住んだ人々がいた。
米子の暮らしやすさが気に入り、十数軒の家を構え
「どんなことがあっても家を絶やさないで継いでいこう」と誓い合ったという。
その中にいたのが、有限会社長田茶店(米子市旗ヶ崎)の祖先。
長門屋の屋号で酒屋、質屋などを営んできた。
1801年に長門屋秀次郎が茶店を創業し、現在も店舗がある同市岩倉町に店を構えて以来、今年で223年を数える。
家系を絶やさないという思いは、時代の流れを読んだ商才、商魂となって引き継がれた。
江戸から大正にかけては茶屋のほか、茶室「松風庵」、酒屋、薬屋、質屋、長屋、貸し蔵など手広く展開した。中でも現在の絆創膏にあたる薬付きの「きしん膏(こう)」の販売は人気を博したという。
2世紀以上の歴史の中で最大の経営危機を迎えたのが1933年。
10代当主が連帯保証人となっていた会社が倒産し、多大な債務を背負うことになった。
広大な土地などの不動産のほか、所蔵していた掛け軸、壺、茶碗などが入札にかけられ、その入札会の予告は地元紙に紹介されたほど。家を絶やさず、生き延びることを最優先させるための思い切った処分だった。
倒産の危機を乗り切った先々代は戦後、医薬品の発展や商品流通の増大を見越して、薬屋や質屋をやめる一方、需要増が見込まれたお茶や茶道具の卸・販売事業に特化した。
狙いは当たり、業績は伸び、昭和28年には有限会社として法人化した。
2008年に他界した先代の六代目長田吉太郎も時流には敏感だった。
特に健康と食の安全・安心を追求し、大山のふもとで栽培した有機栽培(オーガニック)によるお茶販売開始し、有機栽培茶の商品数も日本一多い会社となった。また町おこしや物産振興などにも力を入れ、商都米子のPRに知恵と情熱を注いだ。
その先代をよく知る周囲から「お父さんに声質までそっくり」と言われるのが、七代目現社長の長田吉太郎である。
代々世襲制のため、戸籍上も「和之」から「吉太郎」に変更。
先代から残された課題は「変わらないために変われるか」。茶屋として生きていくため、茶を生かした新たな展開を求められた。
現社長が出した答えの一つが抹茶のスイーツ。
8月には、ようかん、大福などを各業者とのコラボレーションで販売開始。来年春には、ロールケーキを販売する予定。一方で安売り競争が激化する中、あえてオーガニックなどの茶商品の直販営業を強化した。「変わらない」姿勢も鮮明にする。
先代は商売を細く長く永続させるということの例えだと、「牛のよだれ」の格言をよく用いていたという。
「何があろうと、次へつなぐのが努め」という現社長。
存在感のあった先代を意識しながら、茶店の次の100年へ向けて、自らの色を少しずつにじませようとしている。
有機農法のお茶づくり
長田茶店が力を注いでいるのが微生物を取り入れた、「ネッカ堆肥による有機農法お茶づくり」
長田茶店の一番のこだわりは「扱う商品が口に入る物だけに、安心安全なものを提供したいと30年前から始めた」お茶の有機栽培である。